中国王朝の正統性〜禅譲〜
中国史を見ていく上で無視できないのが禅譲という思想である。高校で世界史を履修して中国史を学んだ人は中国における政権交代の思想として「禅譲と放伐」というフレーズを見かけたことがあるはずだ。禅譲は有徳者の施政者が自ら選んだ最も有徳な者(親族かどうかは問わない)に政権を譲るという思想であり、放伐とは無道な施政者を他の有徳な者が天下のため、天命を受けて放逐して政権を奪うというものである。放伐の例としては殷周革命(周政権による商(殷)政権の打倒)があげられ、禅譲の例としては伝説の尭から瞬への政権移譲、後漢の献帝(劉協)から魏の文帝(曹丕)への政権移譲がよく挙げられる。
禅譲、放伐というシステム、思想的背景そのものに関しては話がややこしくなるので今回は触れないでおこう。今回注目したいのは、中国史上形式上放伐が行われたのは伝説の夏王朝を商王朝が打倒した事件、及び前述の殷周革命のみである*1ということだ。覇権王朝が軍事力で打倒された事件としては他に秦による周の打倒、項羽を中心とした楚が秦を打倒した事件がある。しかし、前者については周は完全に権威を失墜しており、秦の君主と周の君主は共に王号を名乗り実質上でも形式上でも対等な関係にあったし、後者も少なくとも形式上は戦国七雄のひとつであり、秦と同格の存在であった楚が復興して秦を討ったということになるので放伐という枠で説明すべきものではないだろう。つまり、中国史における政権交代は漢代以降禅譲によって行われたということになる。軍事的圧力による政権奪取であっても禅譲という手続きを踏むということは自分が打倒した王朝(政権)を有徳者であると正当化するということであり、ここに中国史の面白みのひとつがある。以前の王朝を圧殺するのみであれば、中国史の物語はこれほどまでに豊かではなかったのかもしれない。
さて、ここで漢から始まる中国の禅譲によって連なる王朝の変遷についてみていこう。漢→新(自滅)→後漢(漢を再興。禅譲ではなく、漢の血統の存続と見る)→曹魏→西晋・東晋→宋→斉→梁→陳。漢系の王朝は実はここで断絶する。陳は隋によって軍事力を用いて滅ぼされるからである。陳と隋の君主は共に皇帝と名乗り、主従関係は結んでいないことからこれは放伐ともいえないだろう。隋は漢系ではない禅譲の流れの中にある。異民族である鮮卑族が立ち上げた北魏から始まる流れである。北魏→西魏→北周→隋→唐→後梁(西梁)→後唐→後晋→後漢→後周→北宋・南宋。*2南宋がモンゴル帝国によって滅ぼされて以降は所謂征服王朝と漢民族王朝が交互に軍事力による政権交代をするようになり、禅譲の流れは断ち切れることになる。
こうしてみると、中国王朝史は漢系の時代、北魏系の時代、以降の征服王朝と漢民族王朝の闘争の時代と大別することができる。王朝の正統性というものを考える上でこの区分は面白いし、区分が変わるときというのは歴史的に重大な転換点となっているのは間違いないと考える。因みに西魏・北周・隋は梁からの分裂政権である(すなわち漢系の)後梁(朱梁)を保護下において王族を厚遇し、漢系である陳に対する正統性を主張した。最終的に武力制圧したにせよ、北魏系が完全に漢系を打倒するにおいては一定の配慮がなされていたといえるだろう。
だいぶ大雑把ではあったが、一応禅譲による中国史の流れは見てこれた。無論、穴もたくさんあるので、そこはおいおい埋めていきたい。とりあえず次回は禅譲というシステムそのものについて、或いは支配者の正統性について考察して見る予定である。